無塩トマト・ジュース 4


トマトに限らず、果物をしぼって作るジュースと、いったん濃縮保存した果汁を水で薄めてもとに戻したジュースを、同じように「天然果汁100%」と見ることには不自然さが残っています。


ここで問題を一つ出しましょう。


時は年末、トマト・ジュースを買おうとして、店先で二種類の日付の入った製品を見つけたとします。


一つはその年11月、もう一つは8月です。


どちらを選べばよいでしょうか。


できるだけ新しい日付の製品を求めるのが人情です。


しかし、トマト・ジュースの場合には、11月製造の缶より8月製造の缶を選ぶことを、メーカー自身もすすめています。


その理由は、7、8、9月が原料トマトの収穫期に当たり、この時期のトマト・ジュースは、いわゆるシーズン・パックで、トマトをしぼって作られるからです。


一方、11月は収穫期を外れていますから、この時期のジュースは濃縮果汁還元の方法で作られたものです。

無塩トマト・ジュース 3


もともと、トマト・ジュースは、ジュース類の中で優等生のような存在でした。


ジユースと称する飲み物が、その実、果汁分0~20%くらい、それを薄めて着色し、甘味をつけ、さらに多種多様の食品添加物を加えて作った「色着き甘水」だった時代昭和40年代初期以前にも、トマト・ジュースだけは、100%のトマト果汁でした。


この歴史は現行のJAS規格にも反映しています。


そのトマト・ジュースの持っていた弱みの一つが塩分だったのですが、これは、20年前の「事件」以来、解決されつつあります。


もう一つの問題は濃縮果汁還元にあります。

無塩トマト・ジュース 2


トマト・ジュースには、製造時に0.8%ほどの食塩が加えられるのが普通でした。


単なる味付けというだけでなく、トマトの「青臭さ」を消すという目的もあるということでした。


しかも、飲用の際に、さらに食塩をふりかけたり、ウースター・ソースを落とすという飲み方もすすめられていました。


しかし、肝心のメーカー自身、0.8%というような数値がどうして決められたか、明確には答えてくれないという状態で、塩分の強さを暗黙の中に認めていたのです。


こういう製品に慣れた人が無塩のトマト・ジュースをはじめて飲むと、いわゆる青臭さ、実はトマト臭さに吐き出しかねない反応を示しても、1週間も続けて飲んでいると、今度は反対に塩味のある製品が飲めなくなるという例が少なからず出てきました。


減塩効果を特に言わなくても、トマトの味が楽しめるからです。


こういう消費者の反応を敏感につかみとったメーカー側では、今では有塩のトマト・ジュースでも、塩分を0.5%を下回る程度にまで下げてきています。

無塩トマト・ジュース 1


20年ほど前のことです。


トマト加工品製造の代表的メーカーのうち二社が、次々に無塩トマト・ジュースの製造販売に踏み切り、他の大メーカーもその動きに追随才るという「事件」が起こりました。


それまでトマト・ジュースの塩分が強すぎるという消費者からの苦言に対して、さっぱり反応を示さなかったメーカーのこの決断は、まったく事件そのものでした。


風のうわさによれば、一社が無塩トマト・ジュースの製造開始を決定、無塩表示の缶を製缶会社に発注したところ、その情報をつかんだ他社が、面目にかけても先を滅されまいと、あっという間に二社の製品が市場に出てきたということだそうです。


佃はともあれ、日本のトマト・ジュース史上、画期的な出来事でした。

物理的事実

糊料を使用すれば施工性の向上することは明瞭な物理的事実であって、そのため明治開国期に西洋館を建てた際にも、お雇い外国人の指導で諸事洋風の技術に従ったにもかかわらず、こと漆喰壁に関しては糊料を使用するわが国固有の方法によっています。


おそらくこの時期の外人技師もまた、かつてのヤソ会士と同じ感慨を久しくしたのでしょう。


なお欧米で塗壁材料に糊料を添加しようとする発想の生まれるのは、高分子化学の発達する20世紀も後半に入ってからです。


海藻糊の使用

海藻糊の使用は単に石灰=漆喰上塗の普及を促しただけではない。


この煮沸液で本章第二節に見た聚楽土や大阪土を練れば、いわゆる土物砂壁の糊混ねとなって、同じ主材料を用いて水で練るよりもはるかに施工性が向上し、したがってその価格を下げることが可能です。


聚楽土等による土物砂壁が和風建築一般に定着することのできたのも、やはり海藻糊の存在を抜きにしては考えられません。


このような糊料の使用法は、萄の場合とは異なり、わが国特有の現象であって、少なくとも西欧諸国の伝統にはないのです。

明確な資料はないらしい

わたしたちの国では『三才図会』・『愚子見記』に初見するまで、白土に関して頻出しても、石灰に糊料を混用したという明確な資料は見当りませんでした。


にもかかわらず奈良時代以来そのような使用法の存在を推定してきた理由は、一つには白土以上に糊料を必要とする外壁リフォーム技術的根拠にもよるが、いま一つ『天工開物』の右の記載があったからで、わが国でも同書刊行とほぼ同時期までは、やはり同じ事情にあったとするのが自然でしょう。


そうすれば、この間におけるわが国の左官工事発展の経緯から考えて、糊料の米から海藻への転換の時期は、17世紀初頭の城郭建設ブーム期に求めるのが最も妥当でしょう。


なぜならば、いかに領主の権威をもってしても、広大な全城郭をことごとく米を糊料とする白璽で塗り込めるのは相当な経済的負担であろうし、まして17世紀中葉までに、京都の中心街とはいえ、町家のほとんどを白墓上塗とするためには、どうしても米に代る安価な糊料の使用を想定せざるを得ないからです。

1日早く相場を掴んだ人

こんにちは。ちょっと昔の話です。


尾と並ぶ巨商下村善太郎は、もともと前橋の荒物商の家に生まれたが、米相場に失敗して八王子に行き、開港時には甲斐・相模方面にまで出かける繭糸商に成長していました。


下村も輸出生糸取引で産をなし、1863年(文久三)には一万両の資産をもって前橋へ戻り、上州・信州・奥州を股にかけた仕入れ活動を通じて1876年(明治9)には若尾を凌ぐ数十万円の資産を擁するに至ったといいます。


下村はその後80年代中葉にインターネットFAXのように生糸取引で巨額の損失を蒙ったまま1893年(明治26)に没するが、1900年の『上毛新報』に掲載された下村の生涯に関する連載記事「故下村善太郎と未亡人」は、彼の「商業上の秘計」について、次のように述べています。

古代・中世において

古代・中世において上塗まで施すような本格的な左官工事が普及し難かった理由の一つは、主材料である石灰等もさることながら、糊料として貴重な食料である米を使用しなければならなかったところにありました。


それがいまや海藻に置き換えられたのであるから、それだけ外壁リフォームが容易になったといわなければならない。


そして18世紀初期の百科事典『三才図会』に記載され、また建築技術書『愚子見記』には一七世紀中葉の施工例に配合比まで明示しているのであるから、海藻のこのような用法は、これらをある程度遡る時期に始まっていたと考えざるを得ません。


一方、『天工開物』によれば、17世紀初頭の中国では石灰の糊料として米が用いられていました。


似たようなこと

こんにちは。前回のことと似たようなことはよくあります。


上司に好かれない、入試に失敗した、運転免許証を持っていないなど。


この場合に「上司に好かれるにこしたことはない」「大学に行かなければならないという法律はない」「運転免許証がないからといって生きられないわけではない」とビリーフを変えて、気持ちをたてなおそうとするのはいかにも負け犬の遠吠えを連想させる。


そんなことよりも、いかにして上司と折り合いをよくするか、どうしたら入試にパスするか、どうしたらライセンスがとれるかと工夫する方が、積極的であり生産的です。


状況(A)を変えるための作戦を練る方がよいのです。